はじめに
こんばんは、じょにーです。
僕らの麻枝准による初となる小説「猫狩り族の長」を読みました。
長年のファンとしては色々と興味深い本だったなーという印象です。
早速ですが、この本に書かれていたことは何だったのか、という考察(というほどのものではないですが)や感想などを書いていってみたいと思います。
当然のように、本の内容のネタバレを含みますので、NGな方はそっとブラウザを閉じてください。
概要
この本は一貫して「麻枝准のことを書いた」ものだな、という印象でした。
個人的には何かしらの作品を鑑賞する際、作品の外からの情報は(作者のパーソナリティなども含め)あまり考えずに作品自体をまずは受け止める、という鑑賞の仕方をしたいと思っているのですが、流石に今作は無理でした。
主に十郎丸が麻枝准の代弁者として彼の常日頃感じていることを代弁し、それと時椿がどのように向き合ったかが描かれていると思います。
麻枝准のパーソナリティの投影を含め、この小説を構成する要素は大きく分けて3つあると思いました。
「麻枝准の生き方」、村上春樹「世界の終りとハードボイルドワンダーランド」、「麻枝准作品のテーマ」の3つです。順番に見ていきます。
1. 麻枝准の生き方
「猫狩り族の長」を読んでいくと、十郎丸が麻枝准のパーソナリティを投影した存在であることにすぐに気が付きます。あまりにも麻枝准が日頃話している主張と十郎丸のそれが被るからです。
いままでの(例としては殺伐RADIOでの長時間のトークなどから)麻枝自身の口から語られていた様々なエピソードが十郎丸とリンクしています。
- 創作の辛さ
- 人を愛する・結婚するということに積極的になれない理由
- 歌が上手いわけではない
- たまにしか吸わない煙草
- 手掛ける曲のコード「VI-IV-V-I」進行
- 日に当たらないので肌が綺麗
などなど。
また、麻枝自身の入院と命の危機からでしょうか…?新しく生まれてくる生命や自身の生きる意味に対して反出生主義のような見方も出ています。
これら、麻枝准の「生き方」および「生きづらさ」が、この小説の核とも言えるでしょう。
2. 村上春樹「世界の終りとハードボイルドワンダーランド」
麻枝准自身、大きく影響を受けたと公言しており、CLANNADでの「現実世界」と「幻想世界」の2つの世界観にも繋がっている、村上春樹「世界の終りとハードボイルドワンダーランド」ですが、麻枝准の初小説ということでおそらくこれを意識しないわけにはいかなかったかと思います。
「猫狩り族の長」では
- 「外側の世界」への意識
- 「外側の世界」へ行ってしまった者
- 「外側の世界」へ行かずに残った者
などの描写が、「世界の終りとハードボイルドワンダーランド」を想起させるものだったかなと思います。
ラストシーン(NEXT WORLD)の解釈
今作のラスト、とても綺麗にまとまっていていいなと思いました。おそらく世界の外側に行ってしまった時椿が、最期の約束通り「また会いに来た」のでしょう。
このラストシーンを見届けたあとだと、「時椿」というネーミングも意味を帯びたものに見えてきます。「椿」の花は落ちる際に首からポロッと落ちてしまうので、武士の時代には「首が落ちるので縁起が悪い」という意味合いで庭には植えられなかった植物だということです。十郎丸にとって、自らが迎えるはずだった死が突然の転換を遂げてしまったのは、突然落ちてしまった椿のようなものだったのかもしれません。
時椿は、殺伐RADIOで言う中川くん的な存在を表現したものかなと最初思いましたが、おそらくちょっと違うポジションですかね。
麻枝准が求めている、そばにいてほしいというような存在なのかもしれないなと雑に思いました。